ゴッホの父も祖父も牧師であったため、周囲には彼も同じ道に進むものと思われていたようです。
しかし、頑固で誰かから強制されることを嫌うゴッホは学校になじめず退学となりました。
絵心のあったゴッホはパリの一流画商で働き始めます。
この時期を含め、以降も何回か失恋しますが、それはゴッホの心に深い傷を作ったと言われています。
しばらくして画商を解雇された彼は、牧師を目指し始めますが、ラテン語の学習についていけずに正規の牧師にはなれませんでした。
ただ、それでも見習いの伝道師として農村などを廻り、貧しい農村の労働者のデッサンもしています。
ですが伝道師の任期が終了し、絵を描く以外の選択肢がなくなりました。
しかしゴッホの画風は暗く、32歳になっても絵が売れず、家族から煙たがられていたとされています。
ですが、パリに住む弟のもとに転がり込み、そこでパリの最先端の絵画を学ぶことになります。
これを機にゴッホの画風も明るくなりましたが、パリの生活になじむことはできなかったようです。
死去する2年前、フランス南部のアルルに移ります。このアルルにてゴッホの数々の名作が生まれています。
そしてゴーギャンとの共同生活を始めたゴッホですが、わずか二か月で悲劇的な別れをします(ゴッホの個性的すぎる在り方が原因だったとされています)。
そこからゴッホの精神は今まで以上に不安定になり、療養を始めます。しかし、精神的な乱れと孤独感が癒えることはなく、1890年、37歳で自死しました。
作品とともに辿るゴッホの人生|彼の絵はどう生まれたのか
それではさらに詳しく解説していきましょう。
○オランダ・ニューネン時代にゴッホの才能が花開き始める|「ジャガイモを食べる人々」
ゴッホは1883年半ば~1885年半ばまで、オランダのニューネンで生活しました。
彼は「汗して労働する生活の中にこそ、価値あるものが存在する」と述べています。
そして1885年には、第一の傑作と評価されている「ジャガイモを食べる人々」を描きました。
○パリでの生活による新しい刺激で、ゴッホのスタイルが生まれ始める
ニューネンにいるままでは絵で食べていくことはできないと考えたゴッホは、1886年に弟のテオが住む家に突然転がり込みます。
テオを通じて「印象派」について知り、その明るい画風に衝撃を受けた彼は、悩みながらも徐々に自身のスタイルを生み出していくこととなります。
また、同じ頃に日本の浮世絵に出会いました。
この経験は、彼が「ジャポニズムの旗手」へと変化していくきっかけとなったと言われています。
アルルの明るい生活が傑作を生みだす|アルルの跳ね橋
ですが、彼の絵が売れることはなく、だんだんと精神的に乱れていきます。
しかし、南フランスの田舎町であるアルルに移ってから、ゴッホの才能が爆発したとされています。
実際、1年弱の期間で「アルルの跳ね橋」をはじめとする様々な傑作を生みだしました。
また、静物画、肖像画、風景画などモチーフの幅も広がっていきました。
また、オランダにいた頃には「ジャポニズム的なインスピレーション」は一切感じていなかったとされていますが、アルルに引っ越してからは日本的な発想がとめどなく溢れ出したと言われています。
弟への手紙の中に日本に憧れる気持ちが幾度となく記されています。
弟・テオの献身
ゴッホは典型的な「死後に評価された画家」であり、生前は一枚しか絵が売れていません。
弟のテオはそんなゴッホを精神的・経済的に支えました。
ただ、テオは「兄だから」というよりは「兄に才能があるから」こそ支援していたと言われています。
ゴッホとゴーギャンの生活
理想主義者のゴッホと現実主義者のゴーギャンは相性が悪く、共同生活は2か月しか続きませんでした。
激しい口論の末ゴッホは自分の耳を切り落としたと言われており、これにより関係性が完全に壊れたとされています。
サンレミ療養院での入院生活|「アイリス」
アルルの人々はゴッホを嫌い、彼自身も幻覚に苦しむようになったため、自らサンレミ療養院で治療を受けるようになります。
およそ1年間の入院生活において、ゴッホは「アイリス」などの数々の傑作をはじめとする140点以上の絵を描き上げました。
ゴッホの最期|「オーヴェール」
サンレミ療養院を退院したゴッホは、引き続き医師の診察を受けつつ、絵画制作に専念しました。
死去するまでのわずか2か月の間に「オーヴェール」などをはじめとする80点ほどの絵を描いています。
まさに蝋燭が燃え尽きる間際のような執念だったと言えるでしょう。
そして1890年7月27日、精神の限界を迎えていたとされるゴッホはピストルで自身の胸を撃ち抜きました。
それから2日後、テオに抱えられつつ37歳でその生涯を閉じました。
自分の胸を撃った日も、彼は風景画を描くために外出したとされています。